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2020年05月15日

ハウトゥードイツ国鉄

最近国鉄の話しかしてないので、ドイツ軍マニアの中でもイっちゃってる人間だと思われてるんじゃないかと心配です。

ところでミリオタの皆さんには鉄道好きが多い印象があります。やっぱり兵器も鉄道も工業機械ですし、子供心を忘れない面々にとってはグッとくるポイントが共通しているのかもしれません。

かく言う自分も、小さい頃から鉄道という乗り物は特に好きなものでした。4歳か5歳の頃、親にせがんで踏切を眺めていた事を今でも覚えています。

20歳ぐらいの時から足掛け6年ほどドイツ軍の軍装をああでもないこうでもないと研究してきて、いよいよ最近は軍への興味も薄れてきました。
パラミリや政府機関の意味不明な階級章や制服にときめくなかで、ドイツ軍という摩訶不思議な存在に魅せられた頃から夢だった「鉄道警察」なるものも一応形にすることができました。


ハウトゥードイツ国鉄



さて、「ドイツ国鉄」と言われて、その存在を知っている人は日本に数多いドイツ軍マニアの中でもかなり限られている事でしょう。
第二次世界大戦下のドイツ国鉄は、戦争経済を回すためひたすら縁の下で働き、地道な仕事をやり続け、最後は空襲と本土決戦で組織そのものが破滅的な最期を迎えました。
また特別移送列車に代表される、ショアへの加担という闇の歴史を抱えていて、現在でもドイツ国鉄ならびにその支配下にあったヨーロッパの鉄道各社が、ホロコーストの被害者に補償を行う事もあります。

ドイツ国鉄は成立時から波乱の一生を送りました。
発足から滅亡までわずかに十数年。時の為政者や世界情勢によってその存在意義や目的は二転三転し、
悲願であったドイツの鉄道統一、ドイツ鉄道黄金期、ナチの台頭、ホロコースト、敗戦に至るまでの道のりは、あまりに早く、儚く、幻のような時間だったことでしょう。

今回はそんなドイツ国鉄の視点から見る、ワイマール共和国そしてナチスドイツという国家の興亡を含めたドイツの鉄道史についてのお話です。

1 波乱の夜明け 敗戦とドイツ統一鉄道

ハウトゥードイツ国鉄

第一次世界大戦は、総力戦時代の到来とよく言われています。
1825年に初めて公共用として開業した鉄道もまた、総力戦への協力として物資や兵員の運搬を盛んに行い、時には列車砲などの「兵器」として自ら戦地に赴きました。

1918年、第一次大戦に敗れたドイツの鉄道は、深刻な混乱の只中にありました。
当時のドイツ…つまり帝政ドイツは、プロイセンを中心とした連邦制国家でしたが、バーデン、ヴュルテンベルク、バイエルンなどそれぞれの帝国にそれぞれの「邦有鉄道」が存在し、
その運用や規格は全く統一されていませんでした。極端な話、おなじ帝国の中でも隣の国に車輌が乗り入れできなかったり、車輌故障が起きても近隣の国の部品では修理できない事もありました。
戦時の中、各社とも非効率なシステムで死力を尽くして事に当たっていたのです。

そこに追い打ちをかけるように、ドイツの敗北とヴェルサイユ条約が彼らの頭上に降ってかかりました。
戦闘によって線路は破壊寸断され、多くの車輌が喪われました。戦後の賠償の一環として、生き残ったなけなしの機関車も戦勝国に次々と引き渡されていきます。
またドイツは海外領土はもとより本土の一部も他国によって割譲されたため、新しい国境から先の線路は断絶され行くことはできなくなりました。

このような状況下で、一刻も早く効率的な、統一されたドイツ鉄道が必要であると認識していたワイマール共和国政府は、
構成国の抵抗に遭いながらも1920年にライヒ交通省管轄下のライヒ鉄道(Reichseisenbahn)を発足し、01型機関車に代表される統一規格の車輌やシステムを急速に整備していきました。


2.ドイツ国鉄

ハウトゥードイツ国鉄


ドイツ鉄道の再興が急がれた背景には、国内運送の健全化による経済の復興と、ヴェルサイユ条約で科された巨額の賠償金の支払いという2つの大きな目的がありました。
特に後者においては、当時の破滅的なドイツ経済ではとうてい賄いきれない金額を賠償せねばならず、1922年にはルール占領という流血を伴う軍事行動が起こるなど、賠償金問題は悪化の一途をたどっていました。
そこで債権を持つ連合国は、半永久的な収益を見込める鉄道を賠償金の回収機関として期待しました。1924年にドーズ案が採用されてドイツの賠償金問題を解決する動きが始まると、
1925年にはドイツ国有鉄道(Reichsbahn)が成立。このライヒスバーンはドイツ人総裁をトップに置きますが、そのうえに監理会が設けられ、18名の委員のうち半分は債権国の代表者が務めていました。


3.黄金期


ハウトゥードイツ国鉄

ドイツ鉄道事業100周年を記念し展示される01型蒸気機関車と、ドイツ初の旅客蒸気機関車「アードラー号」

1930年代に入ると、苦節何年の甲斐あってドイツの鉄道産業は黄金期を迎えます。ヒトラー内閣成立後の半ば強行な経済政策によって、長らく停滞していたドイツ経済は発破をかけられたように回転を始めました。

ハウトゥードイツ国鉄
ドイツ国鉄19.10形蒸気機関車

ライヒスバーンは全国の旅客運輸と鉄道輸送を掌握しました。1935年からはヴェルサイユ条約の破棄により、ドイツ国鉄は賠償金返済のための機関としてではなく、純粋な鉄道事業者として運営に専念できるようになります。
世界初の時速200kmでの営業運転速度を成功させ、またシーネンツェッペリン号やフリーゲンダーハンブルガー号などに代表される夢の超特急の開発など、ドイツの鉄道史においても大きな技術の進展がありました。

ハウトゥードイツ国鉄


一方で、ドイツ国鉄は早い段階からナチス党員による浸透が行われました。
国鉄職員に徐々に党員が増えていき、組織の運営方針もナチ党の意思を強く受ける事になります。
1926年から理事長を務めるユリウス・ドルプミュラー国鉄総裁の直近にも、ナチ党員である高官が増えていきました。


4.戦争の時代、ドイツ国鉄の影の歴史

ハウトゥードイツ国鉄


1930年代後半、強硬な領土拡張を進めたヒトラー率いるナチスドイツは39年9月の第二次世界大戦開戦までに、オーストリア、チェコ、ラインラント、ボヘミア、モラビアなどを次々と自国領に編入。
現地の鉄道もドイツ国鉄に併合され、大ドイツ帝国の領内における鉄道輸送はますます活発化しました。

ハウトゥードイツ国鉄

占領下ポーランドの鉄道学校での授業風景。ドイツ国鉄職員の制服が多数見受けられる。


時を同じくして、ドイツではユダヤ人に対する公民権を剥奪する法律が制定され、全土においてユダヤ人への迫害が横行するようになりました。
鉄道もその例外ではなく、1938年にユダヤ人を家族割引の適用から外す決まりができてから、学割の廃止、寝台車・食堂車の使用不可など徐々に差別は顕著化していきました。
1941年になると指定地域外への鉄道での移動を警察の許可制とし、下等客車の使用強制、はては着席まで制限されるようになりました。
差別というものは徐々にグレードを上げていけば、大きな抵抗を受けづらいという典型的な例を見ることができます。

ハウトゥードイツ国鉄


第二次世界大戦が開戦すると、ドイツ国鉄は通常の旅客運送、軍への物資輸送、そしてユダヤ人の特別移送という3つの中核業務を同時並行で行う事になります。
最前線への物資輸送等を円滑にするため、1942年には戦時設計型の52型蒸気機関車がロールアウトし、なんとその生産数は7000両に達しました。
戦時設計ながら原型の50型をブラッシュアップした堅実な設計で想定以上の長寿命な機関車となりました。
戦後も1980年代ごろまで、かつてドイツに占領されていた国やドイツからの賠償を受けた国、52型のコピーを生産した国では52型が現役で活躍していたそうです。

ハウトゥードイツ国鉄



ソビエトに侵攻したドイツ軍はソ連の鉄道路線を確保したものの、当時のソ連のレール幅はドイツのレール幅よりも狭く、全面的な改軌が必要でした。
この手間を省くためドイツ軍はソ連の残していった機関車をアテにしていましたが、ソ連軍は機関車を最優先で東に避難させており、ドイツ軍がモスクワへと向かうための機関車は全く足りませんでした。
そのためドイツ国鉄は東方における一大改軌事業を展開し、コツコツとソ連のレールをドイツのレールとおなじ幅に揃えていきました。
また巨大な炭鉱を有するアルザス・ロレーヌ地方からドイツ国内へ輸送される石炭の輸送量も、戦間期に大幅に上昇しています。


ハウトゥードイツ国鉄
自作の迷彩服を着用する国鉄職員


1943年頃から大規模化したホロコーストに、ドイツ国鉄は大きく加担しました。
ドイツ領内のユダヤ人は43年までにゲットーと呼ばれる隔離都市に強制的に移住させられていましたが、ポーランドに大規模なガス施設を備えた絶滅収容所と呼ばれる収容所が相次いで開設し、各施設にゲットーからユダヤ人が大量に送り込まれる事になりました。
都市部からゲットーへの移送、ならびにゲットーから強制収容所・労働収容所・絶滅収容所への移送は、親衛隊保安部(SD)からドイツ国鉄への発注という形で行われました。
ナチスの異常なまでの中央集権体制へのイメージからか、この手の移送を何かベールに包まれたナチスの秘密特殊部隊が行なったと思っていらっしゃる方も大変多いようなのですが、
実際の移送はこれから全員を殺害することを気取られぬようにするためか、通常の旅客輸送のような手続きを取っていました。
ドイツ国鉄では、ゲットーへの移送の際もユダヤ人から通常通りの運賃を徴収しており、小児は無料、また大規模な輸送となると団体割引を適用しました。
支払う金のないユダヤ人にはSDが貸付を行います。警備のため列車に同乗するSD/SS隊員たちも等しく運賃を支払いましたが、これはSDが切符を買い上げる形となりました。

ハウトゥードイツ国鉄



皮肉にもドイツ国鉄が几帳面に記録した運行記録、またSDからの発注記録は、ホロコーストの実態を今に伝える重要な証拠となりました。
ドイツには強制移送が行われたホームを再現した慰霊碑があり、当時の状況を今に伝えています。


5.敗戦


ハウトゥードイツ国鉄


1944年にもなると、ドイツ国鉄の輸送量はピークに達しています。本土空襲でレールや操車場は破壊され、稼働できる機関車も減り続けていましたが、それでもあらゆる物資が不足する前線への鉄道輸送は続きました。
しかしアルザス=ロレーヌの炭鉱から伸びる輸送路線への空襲は、ドイツの継戦能力を大いに削ぎました。国鉄では43年頃から旅行目的の乗車は制限され、やがて45年にもなるとソ連軍を避けて西へ避難する人々の輸送に追われていました。
終戦のその日まで走り続けた国鉄は、5月6日の停戦と同時に長かった戦いの日々を終え…たわけではなく、今度は避難民となった大量の市民や、引き揚げてくる軍人たちの輸送のため再び激務へと戻ります。


終戦の混乱がひと段落した1946年、国鉄総裁のユリウス・ドルプミュラーが死去します。
戦後のドイツ国鉄は西ドイツの連保鉄道(Bundesbahn)と東ドイツのドイツ国営鉄道(Deutsche Reichsbahn)に分かれ、それぞれ独自の歴史をたどることになりますが、
東西ドイツ統一後の1994年にドイツ鉄道(Deutsche Bahn)に統合され、現在では国営ながら株式会社として民営化し人々の生活を支えています。
ハウトゥードイツ国鉄






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この記事へのコメント
中公新書からドイツの鉄道という本が発売され、入手を検討しております。
日本の鉄道の国有化の経緯が頭にあるとドイツでの鉄道統一は想像を越えるものがあります。
ミリタリー、歴史の切り口としてユニークなので楽しみにしております。
Posted by 引退した人 at 2020年05月15日 21:11
「鉄道のドイツ史」でしょうか?
ちょうどいま読み進めているところです。
鴋澤先生の「鉄道人とナチス」はドイツ国鉄の勉強に大変参考になりました。
Posted by 216216 at 2020年05月15日 23:02
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