読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 2人
< 2024年04月 >
S M T W T F S
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
QRコード
QRCODE

2021年11月01日

「批判しづらい世の中」

最近の世の中、物事に批判的な人は「意地悪」とか「性格に問題がある」と糾弾されて、なんだか他人が褒めちぎっているものに冷や水を浴びせることは犯罪だとでも言われそうな空気で困っている。
否定しちゃいけない、人を傷つけてはいけないとなんでもかんでも適用して、テレビからはツッコミが消え、論客が消え、代わりに肯定はできないが否定もされないカルチャーが花開いている。テレビに出られるレベルの笑いを見せられない第7世代だの第8世代だのの芸人が大手を振ってMCをやっているのがいい例である。

いまからネガティブな文章を書こうというのに、冒頭から読む気の失せるようなことを書いて申し訳ないのだが、この先は圧倒的マジョリティに対してどうしてもマイノリティにいようとする当ブログ管理人のあまのじゃくな独り言である。これくらい湿っぽく始めておけば、たいていの人は回れ右してくれるだろうという願いをこめつつ、
テレビ版「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の話をしようと思う。
世界観の重箱の隅と、言いがかり

「泣ける」「泣ける」「泣ける」と右を向いても左を向いても広告やCMが打たれていた時期、「流行りものに乗りたくない」というめんどくさい性分の僕は、ヴァイオレット・エヴァーガーデンを見てこなかった。
それが去年の夏、脳卒中で倒れてからというもの、精神的にどん底のなかで自宅療養している際、友達に勧められて見ることになったのだが、その時の精神状態を勘案しても、当時も今も、テレビ版12話で1滴の涙も流すことは無かった。
正直に告白すると、泣こうとまでした。うまくストーリーに気持ちが乗っかれば泣けるんじゃないかという希望をもってしたが、「泣こうとしている」時点でもうそれは泣けないと認めたようなものだ。

ウォーマシーンとして育てられ、戦場で生きる事しか知らなかった両腕義手の少女、ヴァイオレットが、恩人のブーゲンビリア少佐が今際の際に「愛している」と自分に言った意味を知ろうとして、代筆を生業とする「自動手記人形」となり、依頼人の人生を通して人間としての感情を取り戻していく・・・といった筋書である。

ヴァイオレットは両腕を戦場で失くしてしかもその状態で少佐を「口で」引っ張るぐらいの生命力の持ち主で、義手もソツなくつかいこなし、大して食わなくても良く働くたいへん出来た女の子である。そんな彼女は人の愛から隔絶されて生きてきたので、人間的な感情をあまり持たない。彼女の感情の芽吹を、代筆を依頼してくる人々との交流を通して描いていくストーリーというのは、古典的かつ普遍性のあるテーマで、題材としてのチョイスは良い。問題点はつづまるところ、脇の甘さなのである。


まずもってして「自動手記人形」というものが大変言いづらい。物語の設定上、ややこしいオリジナルな固有名詞は気を遣って表現する必要があるが、どう転んでも(これは各人の力量かもしれないが)「自動式人形」に聞こえてしまうきらいがある。
もっともこれは「ドール」という言葉に早々と切り替えていくのでストレスを感じることは無いが、タイプライターを打つ生身の人間をことをわざわざ「人形」と呼ぶのは、名前の由来設定がきちんとあったとしても、あまり良いイメージを視聴者に与えない。
もう少し「ドール」が周囲の人々の敬愛を集めている描写などがあれば良かったのかもしれない。
専門学校に通って資格を取り、オフィスを構え、外国からの注文にも即応するような職業にしては、職業ヒエラルキーが大して高いとは思えない。

また高度な義手技術が存在していながら、現実で見れば1900年代ごく初期の文明レベルであることは、脚本の嘘であるので問題はない。問題なのは手紙を重視するあまり、「電話機」をほとんど画面に出さなかったことだ。
街の描写にも商業施設、オフィスの描写にもまるで電話が登場しない。意図的に排除していると考えるのが自然だ。しかしこれは、先述の高度な義手技術が存在するのに実用的な電話が無いという不気味な非現実性を際立たせるだけで、手紙の重要性を引き上げる効果はさほど無い。
むしろ堂々と電話は使われるべきで、そこでなお手紙を重要視する描写を盛り込めば、自然と代筆業という仕事のカリスマ性も上がったのではないだろうか。
もっともこの文明レベルでの電話は、それこそ金持ちや軍隊の特権であり、一般市民への普及率はかなり低いだろう。ならなおさら、高貴な王家が登場する回や、軍隊時代の回、軍事基地に出向する回などで電話機の存在も出しておくべきだった。


「自動手記人形」による代筆が必要な理由は、識字率が低い時代で需要がある、王族や貴族同士の婚礼の前に特別な手紙を交わすことが通例になっている、など話を重ねるごとに増えていくのだが、途中からは感情的な部分の「感情労働」の比率が増えていき、それに併せてヴァイオレットも自然と人間らしい感情を積み重ねていく。
つまりヴァイオレットの成長を描こうとすると、自動手記人形の存在意義は極端な言い方をすると感情労働の極致、すなわち「遺書代行」になってしまうのである。
娘を喪った作家のスランプ、病死する母親の娘への手紙、戦死した兵士の最期の言葉、と最終話に向けて畳みかけるように遺書ないし遺書に近いものである。
逆に言うと、遺書を書けるくらいには人の心が分かるようになったヴァイオレットの成長を表しているという寸法だ。



第5話でヴァイオレットは王族同士の結婚に関わる「文通」の代筆を行うことになる。愛の言葉を繊細に、大胆に、正確に書いて相手の気持ちを確かめるだけならまだしも、王家同士となるとほとんど外交文書である。
はっきり言って荷が重い。この話までにヴァイオレットが書いた手紙といえば、軍隊の書類のような文体で依頼主にボロクソに怒られた愛の手紙と、同僚の地元で過去の惚れた腫れたを丸く収めた手紙。その間も他にも手紙書いてるよ~的な描写もあったが、他国の王族の結婚に関する手紙を書くとなるとちょっと別じゃないかと思ってしまう。
この話なら天体観測の少年の話と前後しても差し支えなかったはずだ。実際テレビスペシャルでは両話ともカットされているので、本筋にはそこまでの影響はないのである。
王家同士の重要な文通で下手をしたら、ご破談どころか外交問題になりかねない。創業して間もないホッジンズ(ヴァイオレットの身元引受人)の代筆業の、しかも「ワケありの」新人に依頼するのは尚早な気がしてならなかった。
恐らくこの話のために4話分を積み重ねたのであろうが、5話でこれだけ飛躍してしまうと、かえって4話分は冗長である。やはり6話と交換した方が良かったように感じた。


第7話のまだ幼かった娘を亡くしてスランプに陥っている作家を手助けする回は、テレビシリーズの中でも人気の高い話だ。あいにく印象に残ることがあまりなかったが、ここで「愛する人を喪う悲しさ」を知ったヴァイオレットは、自分が戦争で数えきれない人数の兵隊を殺してきたことにはじめて罪悪感を覚え、以降のエピソードへの導入となる。

ここでもヴァイオレットの無敵っぷりが遺憾なく発揮される。戦闘マシーンとして育てられたヴァイオレットのフィジカルはそれはもう半端ではなく、手りゅう弾で片腕を落とされ、ライフルでもう片方の腕も落とされても動き回り、先述のように恩師のギルベルト少佐の軍服を口で噛んで引きずろうとまでする。
この点に関しては原作の兼ね合いもあるのだろうが、ちょっとやりすぎな気がしてしまった。後述するが見目麗しきヴァイオレットは、両腕が金属に置き換わっても、瀟洒なドレスと持ち前の美貌が薄幸をカヴァーできてしまう。エグい言い方をすると、女を失っていないから、いまいち感情移入に欠けてしまうのだ。女の命である髪、目、あるいは乳房でも純潔でもなんでもいいので、女性的な部分を失うとか、もしくは「指だけ」失うという手もあったのではないだろうか。
機械の両腕から美しい文章が編みだされるというギャップを狙っているのは分かるが、そんなギャップを持たせなくても美しいヴァイオレットが軍隊式の文章しか打てない時点で十分だ。指が両手併せて3本しかないとか、その方が哀れみがあって良い気がする。
プラスの力とマイナスの力は、常に張り合っているのが理想的で、「楽しい」という場面のすぐ真下に「悲しい」という逆の感情を働かせてやると、セリフや場面はグッと良くなる。その塩梅がこのアニメは全体的にマイナスに傾きすぎているきらいがある。泣かせようとしすぎだ。

さて10話へ突入すると、OP前のアバンで号泣という人も多いのだが、ベッドに寝ている母ちゃん、元気な娘、ヴァイオレットの組み合わせの時点で、遺書を書くんだろうなというのは早い段階から察してしまった。
娘さんが5年、10年と歳を追うごとに届く死者からの手紙というのも大変ロマンティックではあるのだが、この手の筋立ては古くはニューシネマパラダイスなどでも似たような手法が取られており、特段新しいものではない。もうひとひねり来るのかと思っていたが、堅実な結末で終わった印象であった。
この話で涙腺崩壊しなかったら人間失格と冗談交じりに言われたが、無事人間失格してしまった。


11話の兵士を看取るエピソードは、このアニメ12話の中でもっとも脇の甘さが少ないシンプルなストーリー展開で好印象だった。戦争で死に行く若者の気持ちを代筆し、そっくりそのまま鮮度を保って持ち帰ることができたのは、元兵士で卓越したフィジカルを持つヴァイオレットだからこそできた所業だ。男の兵隊で同じことをできるかというと、案外難しいのではないか?
(余談だが来年公開の邦画「ラーゲリ・収容所からの手紙」は、ソ連に抑留され手紙を禁止された元日本兵の遺書を、仲間たちがすべて暗記して日本に持ち帰るという実際のエピソードが下敷きになっている)

さて続く11話、12話に関しては、残念ながらここで愛想が尽きる出来事が起きてしまった。
和平交渉をめぐる争いの中、和平派の乗った列車が通る予定の鉄橋に、和平反対派が爆弾を仕掛ける。ご丁寧に両側に1個ずつだ。ヴァイオレットは戦場で培った度胸と体力を総動員し、義手を犠牲にしてまで爆弾を引き剝がして処理。見事に橋の爆破を食い止める。

だがしかしこの時ヴァイオレットが外した爆弾は一つだ。もう一つはどうなったのか?
なんとヴァイオレットと同じ会社で働く配達員の青年ベネディクトが、助走をつけて鉄橋の外へ飛び出し、外側に設置されていた爆弾をキックでぶっ壊して処理するのである。
戦闘マシーンとして殺すことだけを仕込まれたヴァイオレットが必死の思いで、かつ頑強な義手を破壊してまで取り除いた爆弾を、こいつはカンフーキックだけで始末してしまったのである。
これは興ざめも良いところだ。じゃあ反対側に走ってもう一回キックして来いと言いたくなる。冗談は置いておくとしても、ヴァイオレットより「上」のフィジカル系キャラクターを出してしまってはヴァイオレットの設定が勢いを失ってしまうのだ。
「あの」「誰よりも強い」「戦闘マシーンとして育てられた」ヴァイオレットが苦労して爆弾を外すから面白いのに、そのすぐ後にキックだけで始末されてはたまらない。他に何とかやり方は無かったのだろうか?


・目的と手段

京都アニメーションの作画は美しい。微に入り細に入りして考証を積み重ねる姿はスタジオジブリに引けをとらないだろう。
だが美しい絵を描くことだけにとらわれていないか?という疑問が、ヴァイオレット・エヴァ―ガーデンには付きまとっていた。
絵が目的なのか、内容が目的なのかが判然としない。個人的には「絵」が目的になっているという風に映った。しかし「聲の形」では逆に、作画以上に内容の繊細さに重点が置かれている印象が強かった。同じスタジオでこの差はいったい何だろうか?

美しい絵を見せたいがために脚本を置き去りにしがちな某ニューオーシャン・オーネストの映画ほどではないが、今作はプロモーションで「内容」を売りにしていながら、一方でいざ視聴してみれば「絵」に重点が置かれているような雰囲気がぬぐえない。

それはヴァイオレットというキャラクターからしてそうだ。彼女は戦争で心ばかりか両腕まで失った薄幸の少女だが、そんなことを微塵も感じさせないほど美しい顔だちと芸術的なスタイルを兼ね備えている。義手ですらエロティックに描かれている。第7話のスランプ作家のエンドカードではシャワーを浴びるために裸になったヴァイオレットの官能的なイラストカードが本編終了後に挟まれている。
これではいくら幸薄い設定をつぎ込んだところで、感情移入が難しい。ブスに描けと言いたいわけではないが、瀟洒な洋服を着て新品の高級そうなタイプライターを持ったグラマー美女が玄関先に現れて、「ちゃんと代筆してくれる?」と疑う人間なんてそういないだろうという気持ちがどうしても先に来てしまう。
実際はヴァイオレットの行く先々ではほとんどの人がすぐには心を開いてくれない。不思議な話だ。もし俺の家に「メリーに首ったけ」のころのキャメロン・ディアスが綺麗な洋装をしてタイプライター持って現れたら、ここぞとばかりに依頼するし、手紙を1枚1枚わざと分けていっぱい家に来てもらうようにする。人間そういうもんだ。「見た目」は「信頼」と直結している。


また彼女の上司にあたるカトレア嬢も、元踊り子とは言え、オッパイ丸出しの衣装はどうかと思う。あの恰好では良くてそっち系の踊り子、悪ければ春をひさぐお仕事の人に見えてしまう。快活で姉後肌のキャラクターにしたかったのだろうが、あの手の恰好が許されるのは現実に置き換えると鉄筋コンクリートの高層ビルが聳え立つような時代になってからで、レンガ造りの建物が中心の近世初期の、識字率もまだあまり高くなく戦後の混乱が続いている小国という設定で、ああいう恰好をしていたら商売女と思われても仕方が無いだろう。


「美しい物語」で腹を満たしたいのに、このアニメはのっけから「美しい絵」を惜しみなく投じてくるので、先にそっちでお腹いっぱいになってしまうのだ。
これは京アニが抱える二面性というか、ジレンマにも近いものがあるだろう。
この問題は作り手サイドも十分認識はしていると思う。

この作品は軸をどこに置きたいのだろう。ヴァイオレットなのか、ギルベルトなのか、手紙なのか、自動手記人形なのか。
これらの軸を複数に進行させることは可能ではあるが、それをやるには話数があまりにも少ない。最低でも24話はやるべきであり、原作のボリューム不足は否めない。外伝や小話を作れるのなら、ある程度まとめてからボリューミーな1期と2期を描き、劇場版のオオトリに持っていく方が良かったのではないだろうか。

少なくともアフター311の現代において首都東京を水の底に沈めて知らん顔する主人公がハッピーエンドになる映画より、今作の方が億千万倍マシだとは思うが。

・怒らないでください

最後になってきていよいよここまで読んでるもの好きもそうそういないと思って書くが、何より今作への没入感を邪魔するのが、「少佐」である。
ファンの方に怒られるのを承知で書くが、あの型芝居はどうしても気に入らない。00やUCでもそうだし、ルパン三世でもそうだが、かの御仁は「こいつはこういうキャラ」という形から入って役を演じる癖がある。それが続いたせいか同じようなキャラばかりをあてがわれて、何の役をやってても同じにしか聞こえない。案の定今作でもそのクサい喋り方は健在で、ヴァイオレットとのバランスがあまりにも悪い。
演者がキャラクターに感情を込め切れていないのに、見ている側が感情移入できるはずなどない。観客はそんなに甘い生き物ではないと、いい加減誰かが教えてやってほしいが、今作で彼が声優アワードに推されなかったことが同じ業界からの老婆心であると今は信じたい。


・終わりに

これはいよいよ蛇足を超えた発言であると断っておくが、作り手側が言うのはともかくとして、消費者側が「あんな大事件を乗り越えて作られたんだよ」ともし言うようなことがあれば、僕は断固それを拒否する。

アオバシンジなる大量殺人鬼の髪の毛一本でも、この「ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン」シリーズの評価に触れるようなことは、断じて許すことができないからだ。
かの殺人鬼は民主主義のもとで裁かれ、民主主義の下で「民主主義が守るすべてのもの」を剥奪され、やがて絞首台に向かうべき人間である。
そんな人間の陰に彩られてしまってはこの作品は呪われてしまう。それだけはこの作品に否定的な僕でも、絶対に避けたいのだ。

人と人との分かりあいと真摯に向き合ってきたスタジオが、肥大化した自意識の塊によって無残にも襲撃されたかの事件とは切り離して、本作は評価されていくべきだと思う。





Posted by NEU at 18:43│Comments(0)徒然
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。