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2021年01月04日

国家保安本部とアインザッツグルッペンをめぐるあれこれ

こんにちは、あけましておめでとうございます。

ノイでございます。

仕入れたばかりの治安系知識を文章にまとめておきたくなったので記事にした次第ですv



前回だったかいつだったか忘れましたが「ドイツ警察」という記事を書きまして、今の我々日本人でいうところの「お巡りさん」のお仕事を紹介しました。


翻って今回取り上げる「国家保安本部」とは、今の日本で言うところの「相棒」とか、「モズ」とか、「科捜研の女」とか、あの辺の組織+公安警察にあたる組織となります。


国家保安本部とアインザッツグルッペンをめぐるあれこれ


かつてドイツがまだ連邦国家だった頃から続くドイツ警察の系譜と、
新興ながら飛躍的な成長を遂げたSSもといナチ党との融合が図られたこの「国家保安本部」は、
ナチスドイツという国そのものの運命を左右する権力闘争の中心となりました。

そんな「背広組」のお巡りさんたちのお仕事を見ていきましょう。
国家保安本部(以降RSHA)が成立した際、その中核を成したのは主に二つの大きな警察組織でした。
すなわち「保安警察(Sipo)」と、「SS保安部(SD)」です。
まずこの2つの組織の成り立ちから、お話を始めます。

保安警察(ジッヒャーハイツポリツァイ)




保安警察とは、かつて刑事警察と呼ばれた部門と、秘密国家警察と呼ばれた部門とを合体して1936年に成立した警察組織です。

刑事警察(クリミーナルポリツァイ)の主な活動は制服で警らする「秩序警察」と異なり、重大犯罪の捜査や、国内の反政府分子の監視などを任務としていました。
ちなみにジェームズ・ボンドの愛銃として有名なワルサーPPKの「K」は、刑事を意味する「クリミーナル」から来ています。

国家保安本部とアインザッツグルッペンをめぐるあれこれ

(PPKなのかPPK/sなのか…)

対する秘密国家警察(ゲハイメシュターツポリツァイ)は「国家の」秘密を扱う部署で、存在そのものが秘密というわけではありませんでした。
国家に対する反逆や、スパイの摘発や捜査などが主な任務となります。政治犯の摘発なども仕事の一部でした。

「ゲハイメ」が秘密、「シュターツ」が州を意味します。
これはもともとプロイセン州警察にあった秘密警察部署を、プロイセン内相に就任したヘルマン・ゲーリング(当時)が拡大して成立した背景から来ているもので、全国の秘密警察を所管するようになってからもなぜか「ライヒ」ではなく「シュターツ」のままでした。

勘の良い方ならすでにお分かりかとは思いますが、このゲハイメシュターツポリツァイを略して、「ゲシュタポ」と呼びました。

本来は内部部署などの書類で長ったらしい名前を略したものですが、今となってはナチスの秘密警察の代名詞となって広く知られています。
しかし現実のゲシュタポは、RSHAを構成する一部局という扱いでした。

国家保安本部とアインザッツグルッペンをめぐるあれこれ


親衛隊保安部(ジッヒャーハイツディーンスト)

国家保安本部とアインザッツグルッペンをめぐるあれこれ


一方こちらは親衛隊(SS)内に置かれていた諜報組織です。

もとはナチス党(便宜的にこう呼びます)に対する反対勢力の調査や、ヒトラーに利する政治工作などを受け持つ部署でしたが、
時にはSA粛清(長いナイフの夜)のように身内にも牙を剥く組織でした。

ナチス党が政権を獲得してからは、国家の諜報組織としてランクアップしますが、その捜査内容は前述のゲシュタポと重複しており、
お互いの捜査する範囲を巡って軋轢がありました。
この問題の解決のために国家保安本部が設立されることになります。



国家保安本部(RSHA)


1939年に発足した、SS12本部の一つです。
前述の通り、SDとSiPoの2つの組織を一体化した組織となりました。
SDとゲシュタポ含むSiPoは捜査権限や管轄範囲を巡る対立が絶えず、またその「線引き」も難しかったため、
同一傘下に置いて任務を分離する必要があったのです。

この際、内部局はそれぞれ分割され、SDとゲシュタポの業務範囲も線引きされました。
ただこの後も、歴史の長いドイツ警察たる保安警察(クリポ、ゲシュタポ)と、成り上がりの親衛隊保安部との間には確執があったそうです。

この状況をよく思わないハインリヒ・ヒムラーは、SSと警察の完全な統合を目指す上で、両者の言い分を聞きながら妥協的にRSHAを設立してその場を収める羽目になったというわけです。
当時のヒムラーはSS高級指導者・兼ドイツ警察長官の立場にあったため、この両者の統合を行える唯一の人物だったのです。

国家保安本部とアインザッツグルッペンをめぐるあれこれ


統一時のRSHAの責任者は、ヒムラーの腹心として活躍していたラインハルト・ハイドリヒが就任しました。
この時のハイドリヒの肩書は「Chef der Sicherheitspolizei und des SD(保安警察および親衛隊情報部の最高責任者)」というなんとも奇妙な名前になっています。
RSHA長官としての立場になったあとも、しばらくはSiPoとSDが分離した組織とみなされていたのかもしれません。




兎にも角にも、ヒムラーの「SSと警察の完全な統合」という野望のために設立されたRSHAは、SDとSiPoという異なる背景を持った諜報組織を名目上は統一することに成功しました。
その内実はというと、内部は主に7つの局に分かれ、それぞれにSD、刑事警察、ゲシュタポが収まった形となりました。
つまりRSHAの部局となりながらも、それぞれの元の組織名は維持されたままとなったのですが、かくしてSipo全体を「SSの一部にする」という目的はひとまず達成されました。

このRSHAの設立により、SDは主に情報捜査を、刑事警察やゲシュタポはSDの情報に基づいた現地捜査、摘発、取調べを担当することになりました。
この際SDからは逮捕権が、ゲシュタポからは指揮権がそれぞれ取り上げられ、「SDが捜査を指揮しゲシュタポ(ないし刑事警察)が逮捕する」という構図が出来上がりました。

ヒムラーはこの後も警察長官としてさらなるSSと警察の融合を目指して色々無茶をやって大変なことになるのですがそれはまた別の機会にでもお話ししましょう。

国家保安本部とアインザッツグルッペンをめぐるあれこれ

ゲシュタポ本部の写真 堂々と町中にあります



さて、1930年代後半の両者の構成人数は、SDスタッフおよそ3000人に対して、ゲシュタポはなんと4万5千人もの警察官を擁していました。
SDは数や組織の歴史という点ではゲシュタポの後を追うような形でしたが、その指揮権はゲシュタポよりも上でした。
そもそも、なぜヒムラーはSSと警察を融合させようとしたのでしょう?

これもまた勘の良い方はお気づきかもしれませんが、実は「SS」であることと、警察官であることは全くの別問題でした。
はっきり言うと「SSではない警察官」の方が当時は圧倒的に多く、もっと言うと「ナチ党員ですらない警察官」も圧倒的多数だったためです。


そもそもSSとは、ヒトラーの個人警護を目的とした党の武装組織でした。
名目はヒトラーのパーソナルセキュリティでしたが、結成当時ナチ党最大の武装組織だった突撃隊(SA)との党内対立に備えて設立された背景がありました。

その後のSA粛清、政権獲得、ヒトラー政権誕生とナチ党の躍進が続くなか、SSもその規模を徐々に拡大。
SDの雛形となる諜報部署もこの時成立しました。さらには後の収容所管理部隊や、武装SSとなるSS-VT等もナチ党の拡大とともに設立されていきました。

ヒトラー個人の警護から、ナチ党の政略に関するあらゆる事柄を掌握するようになったSSは、ナチ党主導で設立された「帝国大管区」の行政の所管などにも関わり、ついに「ヒトラーの個人警備部隊」の枠を超えた「第三帝国の行政組織」へと転換していきます。

しかしなお、ヒムラーをはじめとするヒトラーの腹心たちは、SSに強大な軍事力、国内の行政権力を担わせる野望がありました。
しかしワイマール共和国軍(1935年にドイツ国防軍に再編)の将軍たちは、伝統あるドイツの軍隊こそは自分たちであるとのプライドを捨てていませんでした。
ヴェルサイユ条約を破棄して国軍を復活する見返りを約束にヒトラーの政権奪取を支援し、国家唯一の軍事力は自分たちであるとのお墨付きをもらう形となりました。つまり軍を完全な形でナチ党やSSの支配下に置くことは難しくなっていたのです。

そこでヒムラーが目をつけたのは、軍に次ぐ巨大な治安組織である「警察」でした。
ヴェルサイユ条約で総数10万人の制限を受けていたワイマール共和国軍に対し、いわば「プールの」人材として大規模な編成や武装が為されていた警察をSSに取り込むことで、国防軍と渡り合える治安能力、国家の掌握能力を手に入れようとしたのです。

ただし当時統一されて間もないドイツ警察は文字通り「ドイツの警察」であって、その起源は帝政時代に遡り、当然ながらナチ党員はおろか、SS入隊ですらも、個々人が入る意思があれば別として、特に強制されていたわけではありませんでした。
組織としてはSSの下にありますが、そこにはSSしかいない、という事にはならなかったのです。

ヒムラーとハイドリヒが刑事警察、ゲシュタポを統合して「保安警察」を作った際、ゲシュタポの構成はそれまでゲシュタポの育成、編成に取り掛かってきたゲーリングの影響を強く受けており、ゲーリングがハイドリヒにゲシュタポの管理を譲ったあとも、SDとの捜査権限の輻輳は大きな問題となりました。

そういった意味ではこのRSHAは、まさしく「ドイツ」と「ナチス」の不完全な融合を体現した組織だったと言えるかもしれません。

ともあれドイツ国内外の諜報を一手に引き受けたRSHAは、SDの策定した「ユダヤ人政策」にも密接に関与していくことになります。
また同時期に国内外の諜報活動を行ったヴィルヘルム・カナリス海軍提督率いる「国防軍情報部(アプヴェーア)」とも対立が深まっていきます。



RSHAの活動


SDはドイツ国内外の情報収集や摘発のための行動の策定などを行いました。有名なアドルフ・アイヒマンもこのSDに所属しており、ユダヤ人の鉄道輸送の手配などに辣腕を発揮しました。
対してゲシュタポは同じく国内外の反政府勢力やパルチザンの摘発に尽力しましたが、もっぱらその任務は実際の「逮捕」など実力行使に主眼が置かれ、SDに比べて肉体派の仕事となりました。

ここでもこの巨大警察権力を巡る不思議な力関係が生まれました。
後述する「特別行動隊」です。

SD、もといSSでは、「総統」に対する精神的・肉体的な献身を強く評価する向きがあり、ヒトラーと共に草創期のナチ党で集会や闘争に参加した者や、ヒトラーのために負傷したり時には殉死した者は、ナチスドイツでは非常な名誉を与えられる存在でした。
ナチスの党歌「ホルストヴェッセル」や、フェルトヘルンハレの闘争殉死者の扱いなど、挙げればキリがありません。

そのためSSの内部局から発展したSDに関しても、逮捕権が無いにも関わらず、「実際に行動すること」が美徳とされたようです。
すなわち特別行動隊への参加はSD内部での昇進に大きく関わったと言われています。


特別行動隊(アインザッツグルッペン)

アインザッツグルッペン(EG)はホロコーストの歴史を語る上で欠かせない存在となっています。
「移動殺戮部隊」とか、「特別虐殺部隊」みたいな意訳のせいもあってか死の軍団というイメージがついてまわるEGですが、言語の「アインザッツグルッペン」には特別な部隊という程度の意味しかありません。
部隊そのものも常設されていたわけではなく、行動予定によって都度編成が組まれました。

アインザッツグルッペンの指揮は、RSHA内のSDが執り、その実働はSDをはじめゲシュタポ、クリポ、秩序警察(オルポ)、武装SS、陸軍に至るまで人員を抽出した混成部隊が当たりました。

国家保安本部とアインザッツグルッペンをめぐるあれこれ

占領地域に展開するアインザッツコマンド。アインザッツコマンドが複数連なり「アインザッツグルッペン」が構成された。


この事実は特別行動隊が国防軍や武装SSの編成した部隊ではないという事ですが、それが国防軍と武装SSを免罪する材料になることはないということもまた証明しています。
陸軍から特別行動隊に提供された人員は相対的には少なめではありますが、そもそも特別行動隊が行動する場所は国防軍の占領地域であり、特別行動隊の所属ないし預かりが現地の陸軍にあったことは陸軍の責任論において重視されるべきでしょう。

さて、この特別行動隊の任務は、国防軍の占領地域での抵抗勢力を検挙・摘発することにありました。ただしこの名目が、暗にユダヤ人をはじめとするナチスにとっての「不要な」民族の根絶やしを含んでいたことは周知の通りです。

特別行動隊が主に活躍したのは、東部戦線、それもポーランドを中心とした地域でした。
1940年代のポーランドはヨーロッパ最大のユダヤ人コミュニティを抱えており、東方生存圏構想でドイツの植民地となる予定であったポーランド、ベラルーシ、ウクライナの諸地域は、ドイツによって「浄化」される必要がありました。

1939年のドイツによるポーランド侵攻時から、特別行動隊の活動は開始され、絶滅収容所が本格的に稼働し始める41年から42年ごろまでにかけてその活動のピークを迎えました。
アインザッツグルッペン全隊が殺害したユダヤ人、共産主義者、パルチザンなどの総数は100万人を超えたと言われています。

アインザッツグルッペンは多数の「容疑者」や「死に値する人々」を銃殺するという部隊の特性上、まったく不人気な部隊であったという味方が一般的となっており、中には「懲罰部隊」としている意見も見られますが、これを鵜呑みにするのは少し気が早いと思います。

アインザッツグルッペンは先にも述べた通り臨時編成が基本の部隊であり、集められた各組織の人員の比率も隊によってバラバラでした。独ソ戦時に編成されたアインザッツグルッペン各隊も、少なくとも500人、多い部隊は1000人の人員を擁していました。
懲罰部隊は基本的には恒常的に設置されるわけで、臨時的に編成される(いつ、どのくらいの規模で編成されるかはその都度決まる)アインザッツグルッペンのためにわざわざ「懲罰予定者」を自分の組織の中でプールしておいたとは考えにくいのです。
またアインザッツグルッペンが武装組織とはいえ、なにも1000人が全員銃殺部隊なのではなく、通信員や運転手、補給部隊なども数百人単位で動員されています。
100人の懲罰予定の通信資格保持者が都合よくどこかの部隊にいて、アインザッツグルッペンに集められる、なんてことがあるでしょうか?


とはいえ、備えていないからこそ、急な人員提供の指示にひまな人員を割り当てたと見ることもできます。
ひまな人員、すなわちたまたまひまな場所に配置された人員や、訳あってひま(というか留置)を持て余している兵隊を集めて送り出した、という見方もできないわけではありません。

また前述の通りアインザッツグルッペンへの参加はSDやゲシュタポにとっては自身の「査定」に関わる仕事で、SDのような本来は裏方部署の人員が現場を仕切るために占領地まで出張ってくること自体、自分から行きたくて来たという証左に他なりません。

ここで最近復刻した「普通の人々 ホロコーストと第101警察予備大隊」での第101警察予備大隊の話を引用しておきます。
101大隊はアインザッツグルッペンではなかったようですが、東方地域の占領政策の一環で、1942年に「清掃」を行っています。
この際指揮官だったトラップ少佐は、目的地に到着した当日の朝に隊員たちに、「これから労働不可能な女子供、老人らを射殺する」任務内容を通達し、「自分はこの任務は遺憾である」「耐えきれないと思う者は名乗りでろ」と、自身も葛藤しながら伝えたという証言が残っています。

つまりこの場には、何を行うか知っていて命令だから仕方なく従っている指揮官と、自分たちがこれから集団処刑を行うとその日の朝に初めて知らされた警察官、その2者が同時に存在していたのです。


101大隊とアインザッツグルッペンとを同列に語るのはさすがに無理がありますが、同じような「清掃」の仕事に就いていた二つの部隊の一方に、このような現実があったことを思えば、アインザッツグルッペンにも似たような状況が発生していた可能性は否定できません。


兎にも角にもアインザッツグルッペンには、熱烈にこの仕事をやりたい者、やりたくないが仕方なくやっていた者、自分たちの任務内容をあまり詳しく教えられないまま連れてこられた者など、背景の異なる隊員たちが寄り集まっていたと見るのが自然ではないでしょうか。

アインザッツグルッペンの存在は,「ホロコースト否定」という中学生が好きそうなネットミーム(あえてこう書きます)に対する明確な立証ともなります。

つまりホロコーストを「国家プロジェクト」として捉えないから、

銃殺なんて非効率だからあり得ない
ガス室をわざわざ作るお金や資材などあるはずがない
戦争中なのに遺体を焼くガソリンが調達できるのはおかしい

などという初歩的な思い込みに囚われるのです。

確かにホロコースト、ナチスの言い方としては「最終的解決」は、戦争の影響を大きく受けながら実行されました。
ですが、それは散発的、偶発的に生まれたものではなく、明確な国家のプロジェクトとして進行したのです。
対外戦争と「最終的解決」とは、並行して行われたプロジェクトであり、究極を言えば「二本立て」だったのです。
そのため戦争の推移に左右されることはあっても、戦争がどちらか一方が「負けた」と言わない限りは続くように、中央政府の意思決定が無い限りは、「最終的解決」という「事業」は進行し続けたのです。
事業には人員、コスト、日程、連絡調整がつきものです。それらすべてを場当たり的に行っていたら、これだけの大規模な殺害を戦争以外で行うことは難しいでしょう。
人員も弾薬もガソリンも、「必要になったから」調達されたのではなく、「必要だと決まっていたから」調達されたのです。


ホロコーストを場当たり的な虐殺の積み重ねと思っているうちはこの勘違いから抜け出せません。
アインザッツグルッペンから強制収容所、もっと言えばニュルンベルク法からアウシュヴィッツの殺人工場までは、絶えず一本の糸で繋がった事象だったというわけです。



2/17 追記


拙著の当記事をご覧になられた方から興味深いお話を頂くことができました。
感謝いたします。



本記事、大変興味深く拝読致しました。
アインザッツグルッペンについて紹介されている日本語のコンテンツはあまり無い為、ビックリ致しました。

既にご存知でしたら申し訳無いのですが、野井様は「ナチスの知識人部隊」という本をご存知でしょうか。
SDの組織構造が詳細に解説されている良書です。
もちろんアインザッツグルッペンの記述も存在します。

アインザッツグルッペンは野井様が想定された通り常設部隊です。
しかし、アインザッツグルッペン、
その下部組織にあたるアインザッツコマンドまでのSD隊員だけが常設部隊であり、3000名はここを意味します。

アインザッツコマンドは車とオートバイ、通信機能で構成された「移動前線司令部」と「司令部護衛部隊」にあたる部分のみの、
実行部隊全体から見れば少数の部隊です。
広大な東部戦線全域に散らばっているのですから、3000名は少ない数なのです。

常設部隊は、
・将校はSDにおいて昇進への関門とされた、
例え非情な任務でも淡々と行える鉄の心と忠誠を示す「度胸試し」として送り込まれており、
メンタルを壊さず積極的に任務を実行できる事が証明されれば栄転が約束された出向者
・下士官兵は各SSや警察組織で失敗や不名誉な行いをしたり、素行不良の懲罰人事で送り込まれた者
で構成されていました。

司令部部隊なので通常の軍や警察部隊と違い、
将校の比率が多かったようです。

アインザッツグルッペンの将校と下士官兵との一番の違いは、
将校は出向者であり、「度胸試し」が終われば栄転が約束されていた事です。

SDは警察組織ですから、大学法学部卒や心理学部卒の「知識人」が安定した就職先である官僚として就職して将校になっており、
中でも出向組は将来のSD幹部として未来を嘱望されていたエリートだったのです。

注目されるのはメンタルを壊さない要件は罪の意識に苛まれてしまうだけでは無く、「処理」を楽しむ様にもなってはいけなかった点です。
ナチ社会の高官はどんな場合でも冷静に「職務」を行う事が求められました。

下士官兵は大部分は護衛部隊(もちろん実行部隊も兼ねる)と思われます。
武装SSからの転属者はここに当てられたのでしょう。

警察官は運転技能を持っている事が多いので運転や通信などの技能者だと思われます。

では臨時部隊とは?
少数の部隊であるアインザッツコマンドの「実働兵員」の主力はSDではなく、
「小さな独裁者」のヘロルト戦闘団の様に現地で臨時に指揮下に編入する国防軍や警察大隊などにより膨れ上がる仕組みになっているのです。
つまりアインザッツグルッペン3000名の下に、
途方もない数の臨時部隊が居たのです。

アインザッツコマンドは「掃討」を行うに当たって近隣に展開する他組織の部隊に「協力」を求めます。

101警察大隊の場合、同じ警察組織である以上、部隊長であるトラップ少佐より上位者のSD将校に命令されれば断る事は出来なかったと思われます。

一方、これが国防軍であった場合どうなるか。
ここが戦後問題とされた所ですが、国防軍には「協力義務」と呼べる規定がありました。
他組織であっても、上位者相当の階級の人間が困っていれば軍務の妨げにならない限りは助けなければいけない、という規定です。

SDはこれを利用し、手近な国防軍部隊の現地指揮官に命令をして部隊を「借りた」のです。
もちろん軍事任務中の現地指揮官は、任務が優先ですから断る事が出来ます。
それに警備任務中ならまだしも、前線への移動中の場合、「寄り道」していたら上級司令部からの叱責、下手すれば脱走兵扱いは免れません。

しかし、SDはそれも想定しており、現地部隊の指揮官に「取引」を持ちかけるのです。
曰く、
・上級司令部にはSDから説明を行う
・「掃討」で消耗した弾薬はSDが補填する
・快く協力してくれれば勲章(おそらく戦功十字章)の申請を行う

更に現地指揮官にもメリットがありました。
前線に向かっている部隊は当たり前ですが時間通りに到着すれば、敵の正規軍やパルチザン部隊との戦闘を行うことになります。

しかし、「掃討」任務であれば、非武装か、せいぜいが少数の自衛用の猟銃を持った民間人と戦うだけです。
しかも、「別任務」の結果遅刻すれば、その時間分だけ戦わなくていい事になります。もしかしたら現地に時間通りに到着した他部隊によって戦闘が終わっているかもしれません。

自分だけでなく、部下の命も預かる指揮官として、どちらを選ぶでしょうか?

しかもソ連の場合は国際条約に入っていないので、法的な問題もありません。
人道にさえ目を瞑って民間人を掃討すれば、自分達の命が助かる確率が大幅に上がる上に勲章まで貰えるのです。

例え作戦に遅れた事を上級司令部から叱責されても、SD、ひいてはSSが後ろ盾になってくれます。

アインザッツグルッペンの臨時部隊はそのような「悪魔の誘惑」によって編成され、
これによりSDは少数の常設人員のみでの「掃討」を可能としたのです。
少数とした事で補給や予算の削減をし、
自動車化した司令部のみで機動し、
都度現地部隊を使役することで「効率的な処理」を可能としたわけです。

戦後、罪を問われた国防軍軍人はこの「協力義務」規定によって行った事であり、責任は無いと主張しました。
現代のドイツ連邦軍に「良心的命令拒否」規定が存在するのは、再度このような事件が起きた際に軍人個人を訴追する為です。



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この記事へのコメント
野井様

本記事、大変興味深く拝読致しました。
アインザッツグルッペンについて紹介されている日本語のコンテンツはあまり無い為、ビックリ致しました。

既にご存知でしたら申し訳無いのですが、野井様は「ナチスの知識人部隊」という本をご存知でしょうか。
SDの組織構造が詳細に解説されている良書です。
もちろんアインザッツグルッペンの記述も存在します。

アインザッツグルッペンは野井様が想定された通り常設部隊です。
しかし、アインザッツグルッペン、
その下部組織にあたるアインザッツコマンドまでのSD隊員だけが常設部隊であり、3000名はここを意味します。

アインザッツコマンドは車とオートバイ、通信機能で構成された「移動前線司令部」と「司令部護衛部隊」にあたる部分のみの、
実行部隊全体から見れば少数の部隊です。
広大な東部戦線全域に散らばっているのですから、3000名は少ない数なのです。

常設部隊は、
・将校はSDにおいて昇進への関門とされた、
例え非情な任務でも淡々と行える鉄の心と忠誠を示す「度胸試し」として送り込まれており、
メンタルを壊さず積極的に任務を実行できる事が証明されれば栄転が約束された出向者
・下士官兵は各SSや警察組織で失敗や不名誉な行いをしたり、素行不良の懲罰人事で送り込まれた者
で構成されていました。

司令部部隊なので通常の軍や警察部隊と違い、
将校の比率が多かったようです。

アインザッツグルッペンの将校と下士官兵との一番の違いは、
将校は出向者であり、「度胸試し」が終われば栄転が約束されていた事です。

SDは警察組織ですから、大学法学部卒や心理学部卒の「知識人」が安定した就職先である官僚として就職して将校になっており、
中でも出向組は将来のSD幹部として未来を嘱望されていたエリートだったのです。

注目されるのはメンタルを壊さない要件は罪の意識に苛まれてしまうだけでは無く、「処理」を楽しむ様にもなってはいけなかった点です。
ナチ社会の高官はどんな場合でも冷静に「職務」を行う事が求められました。

下士官兵は大部分は護衛部隊(もちろん実行部隊も兼ねる)と思われます。
武装SSからの転属者はここに当てられたのでしょう。

警察官は運転技能を持っている事が多いので運転や通信などの技能者だと思われます。

では臨時部隊とは?
少数の部隊であるアインザッツコマンドの「実働兵員」の主力はSDではなく、
「小さな独裁者」のヘロルト戦闘団の様に現地で臨時に指揮下に編入する国防軍や警察大隊などにより膨れ上がる仕組みになっているのです。
つまりアインザッツグルッペン3000名の下に、
途方もない数の臨時部隊が居たのです。

アインザッツコマンドは「掃討」を行うに当たって近隣に展開する他組織の部隊に「協力」を求めます。

101警察大隊の場合、同じ警察組織である以上、部隊長であるトラップ少佐より上位者のSD将校に命令されれば断る事は出来なかったと思われます。

一方、これが国防軍であった場合どうなるか。
ここが戦後問題とされた所ですが、国防軍には「協力義務」と呼べる規定がありました。
他組織であっても、上位者相当の階級の人間が困っていれば軍務の妨げにならない限りは助けなければいけない、という規定です。

SDはこれを利用し、手近な国防軍部隊の現地指揮官に命令をして部隊を「借りた」のです。
もちろん軍事任務中の現地指揮官は、任務が優先ですから断る事が出来ます。
それに警備任務中ならまだしも、前線への移動中の場合、「寄り道」していたら上級司令部からの叱責、下手すれば脱走兵扱いは免れません。

しかし、SDはそれも想定しており、現地部隊の指揮官に「取引」を持ちかけるのです。
曰く、
・上級司令部にはSDから説明を行う
・「掃討」で消耗した弾薬はSDが補填する
・快く協力してくれれば勲章(おそらく戦功十字章)の申請を行う

更に現地指揮官にもメリットがありました。
前線に向かっている部隊は当たり前ですが時間通りに到着すれば、敵の正規軍やパルチザン部隊との戦闘を行うことになります。

しかし、「掃討」任務であれば、非武装か、せいぜいが少数の自衛用の猟銃を持った民間人と戦うだけです。
しかも、「別任務」の結果遅刻すれば、その時間分だけ戦わなくていい事になります。もしかしたら現地に時間通りに到着した他部隊によって戦闘が終わっているかもしれません。

自分だけでなく、部下の命も預かる指揮官として、どちらを選ぶでしょうか?

しかもソ連の場合は国際条約に入っていないので、法的な問題もありません。
人道にさえ目を瞑って民間人を掃討すれば、自分達の命が助かる確率が大幅に上がる上に勲章まで貰えるのです。

例え作戦に遅れた事を上級司令部から叱責されても、SD、ひいてはSSが後ろ盾になってくれます。

アインザッツグルッペンの臨時部隊はそのような「悪魔の誘惑」によって編成され、
これによりSDは少数の常設人員のみでの「掃討」を可能としたのです。
少数とした事で補給や予算の削減をし、
自動車化した司令部のみで機動し、
都度現地部隊を使役することで「効率的な処理」を可能としたわけです。

戦後、罪を問われた国防軍軍人はこの「協力義務」規定によって行った事であり、責任は無いと主張しました。
現代のドイツ連邦軍に「良心的命令拒否」規定が存在するのは、再度このような事件が起きた際に軍人個人を訴追する為です。

長文大変失礼致しました。
Posted by Schachtel at 2021年01月15日 20:10
大変興味深いお話をありがとうございます。
お恥ずかしながらまだその本は読んではおりませんが、ぜひとも購入したいと思います。

自分の中では明らかに数の少ないアインザッツグルッペンがどのようにあれだけの殺戮を成し遂げたのか、また101警察大隊のような部隊に誰が指示を下したのか、色々と点と線が結びつくお話でございました。

お許しいただけるのであれば、コメントをブログに掲載させていただいてもよろしいでしょうか?
(ご挨拶の部分などを多少編集する場合もございます)
Posted by 216216 at 2021年02月01日 17:20
お返事ありがとうございます。

SSは若い組織であり昇進が早かった事、
また他の省庁と違ってナチ時代になった事で新設された為人手不足であり、
特に法曹業界に進まない法学生からすれば「公務員として安定した有望な就職先」と見做されていたという話を知れば、
一気に身近な話に感じるのではないでしょうか。
彼らは「普通じゃない血に飢えた虐殺者」などでは無く、
「出世争いに燃える若手官僚」に近かったのです。
顧客を騙して売上を上げる営業マン、書類を隠蔽する官僚など、
考えようによっては現代にも通じる話かもしれませんね。

>コメントをブログに掲載したい
ナチにおけるこの分野の理解の一助になるのであれば、私の拙文で宜しければお使い下さい。
Posted by Schachtel at 2021年02月02日 21:20
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