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2015年09月02日

ノー・マンズ・ランド

ノー・マンズ・ランド

2001年公開。製作にはボスニア・ヘルツェゴビナほか、スロベニア、イタリア、フランス、ベルギー、イギリスが参加した。


ノー・マンズ・ランド



ボスニア紛争下を舞台に、ノー・マンズ・ランド(無人地帯)に迷い混んだ三人の兵士とその運命を描く。

戦争映画にしては実に狭い範囲、かつ限られたシチュエーションだが、ユーゴスラヴィア内戦から派生したボスニア紛争という、近代最後の全面局地戦争の雰囲気がよく出ていたと思う。
意味のわからない新用語を作ってしまったが、ユーゴ内戦系の紛争は総じて狭い国土の中で行われ、全面衝突より市街地での局地戦の方が圧倒的に多かった印象が我々パンピーにはある(有名な「スナイパー街道」のような戦闘範囲に比べて人的損害が異常に多い地域がよい例である)。


ノー・マンズ・ランド




この映画の戦場はのどかな窪地で、セルビア軍とボスニア軍がそれを挟んで対峙している。市街地ではないものの範囲としてはかなり狭い。両軍の位置はたぶん板門店より近いはずだ。
窪地の塹壕に迷い混んだボスニア軍のチキは、パンツ一丁で塹壕から友軍に助けを求める。それを目撃したセルビア軍は、熟練の老兵と、新兵のニノを偵察に出す。チキは一瞬の隙を突いて老兵を射殺するが、なぜかニノには止めを刺さない。チキの仲間のツェラが、老兵に死体と勘違いされて体の下に地雷を埋められており、それを解除できるのはニノ以外に思い当たらなかったからである。かくして、二人の兵士と一人の地雷が、時にいがみ合いながら、時に冗談に破顔しながら、塹壕から脱出するべく思案を巡らせていくのだが・・・


ジャケット絵の通り、この二人が協力してパンツ一丁でお互いの陣地に向かって助けてアピールをするシーンがあるのだが、何を勘違いしたかこの映画をこのシーンだけでシュールコメディだと思ったらしい日本のプロダクションが、いかにもおバカな敵同士の二人がふざけあったり仲良くしたりするみたいなオチャメな予告を作ってしまった(TSUTAYAで借りれるDVDにも収録されている)。


これは作品のメッセージを破壊する重大な冒涜行為だと敢えて厳しく非難しておく。
この映画は全編にわたって暗いトーンで進み、ふたりがつかの間気を許す場面も、せいぜい世間は狭いな程度の話で、お互いの敵意は常にお互いに向けられている。ボスニア紛争の虚しさややるせなさもこれでは形無しだ。かたなし君である。




お互い敵同士、銃を持てばそいつの言い分が正しいと言う他ない。

ボスニア紛争は、ユーゴスラヴィアから独立を果たしたボスニアに、もともとボスニア人と共に暮らしていたセルビア人が、セルビア人はセルビア人として独立することを希望し、両者の対立が行くところまで行ってしまった結果発生した紛争である。
そのため二人は話す言葉が同じだし、地名を言っても普通に通じる。この辺は映画の中でもごく自然に描かれており、ご近所さんがある日突然武器を持って襲ってくるというこの紛争の異常さを見事に表現している。
「軍服を着ていなければ友達になれたかもしれないのに」という、西部戦線異状無しの名台詞を思い出す。
といっても、きちんとした軍服や装備があるのはセルビア軍だけで、ボスニア軍は普段着のTシャツにAK持って走らなければならない。
ボスニア側のチキとセルビア側のニノを見比べれば一目瞭然である。



ストーリー中盤ではパンツ一丁の合図が功を奏し、双方が国連防護軍を要請して二人の救出を図る。
ここで出てくる「国連防護軍」という聞きなれない組織は、ユーゴスラヴィアに展開していた国連の平和維持活動(PKO)の一環で、人道支援や物資輸送を主な任務とした。

救援要請を受けたフランス陸軍のマルシャン軍曹は、地雷処理班が必要なことを本部に連絡するが、面倒事を嫌う司令は待機命令を出しチキらの救出を許可しない。そうこうしている間にこんどはマスコミがこの状況をかぎつけ、チキとニノ、それに地雷を仕掛けられたままのツェラの三すくみに立ち入ってずけずけと取材を行い始める。三人を救いたいマルシャンの機転でドイツ軍から地雷処理班が送られてくるが、ツェラの下に仕掛けられた地雷を見たドイツ兵は…。



この映画はいろいろとメッセージを有していると思うが、私個人として一番感じたのは「他人事感」である。
実際に銃を握っている当事者以外はまるで興味も無いし同情もしていない、ただただどうでもいいこと感がすごく出ているのである。

国連のおエライ方は大事さえ起きなければいいという考えで、特にラストの判断と指示は本当にあったとしたら背筋の凍る一言だった。
この戦争が国際社会の不手際で泥沼化したりジェノサイドになったりと後々禍根を残すとまずいと思ったのか、とにかく「きれいで何事も無い」戦争を演出したかったように描かれている(実際はそうはならなかったが)。

マスコミも、これは万国共通のことなのかもしれないと思ったが、過剰にお涙頂戴の演出をしては、聞きたいことだけ聞いて水の一本も渡さずに帰っていく。おまけに目の前で発砲があると信じられないといった顔で平気で兵隊に守ってもらおうとする。
自分たちは弱い立場の代表なんだすごいだろうエッヘンという傲慢と思い上りが目に浮かぶ。


この映画は反戦映画として非常に高く評価されているが、人間の殺し合い以上に、それを止めるはずの立場の人間たちが取った行動を痛烈に批判しているのだ。


知りながら見て見ぬふりをすることこそが最大の罪なのである。


余談だが、先述のAK以外に、ボスニア軍はシモノフSKSだのマウザー98kだのを持って戦っている。この映画では他にもMG42やFA-MASなど、ガンマニアにはたまらない武器が登場することが隠れた魅力だ(MG42はユーゴスラヴィア仕様のM53、マウザー98kも戦後のドイツ国外モデルの可能性が高い)。
ユーゴスラヴィア内戦は、それまでのAK、G3、FAL、M16等のバトルライフルから、M4等に代表される近代アサルトカービンへの過渡期に発生した紛争であった。1900年代中期から後期を支えた銃や戦車、航空機の多くがその最後の務めを果たしたのである。





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